Published 2月 14, 2018 by

伊藤若冲~仙臺との繋がり(2/5)

こんにちは、染井吉野です。

ー若冲の生立ー
生まれは1716年2月8日で京都の高倉通と錦小路通の交わるところに生家があったとされています。若冲とは成人後の名前ですから幼少の名は違う名です。
生家は野菜問屋「桝源(ますげん)」を営んでいて長男として生まれています。父は伊藤宗清だそうです。問屋ですから農家から野菜や果物を買い卸していました。生家のあった界隈は元々錦市場だったので問屋が軒を連ねていたことは想像ができます。主(あるじ)は代々「源左衛門」と名乗っています。
若冲が23歳の時(1738年)に父宗清が逝去したため長男だったので家を継ぎ四代目「伊藤源左衛門」となります。

幼少の頃の若冲については、当時親しく交流していたしていた寺の僧侶大典顯常(だいてんけんじょう)が書き残しています。若冲は若い頃から学問が嫌いで書も下手、さらには何の特技もなかったとのこと。更には、若冲が20代後半の時に直接聞いた話としてこうも書いています。「京都の街中の青物問屋の主人は酒も呑まなければ女にも関心が無く、無学で無趣味そして無芸であり、まさしく唐変木(とうへんぼく)というほかない。」と。

庶民の間でも、代々続く問屋の主人としては、なんの取り柄もないと絶好の話の種になっていたにちがいありません。
この時代は、家を継がせる長男は妾(めかけ)を持ってでも跡取りを作るのが普通だったらしいので、女性にも興味がなく、何に対しても欲がなかったのですから変わり者呼ばわりされていたのでしょう。

そんな若冲ですが、親しい大典は、若冲は幼い頃から絵を書くことだけが唯一の楽しみだったと記しています。
問屋の主(あるじ)となっても絵を描くことは続けていたらしく、若冲は京都に大阪の狩野派の画風を独学で習得した画家、大岡春卜(おおおかしゅんぼく)を招いて絵画の勉強をしていたらしいです。画家を大阪から何度も招くことができたのは代々続く商家の主であったことが幸いしたと思われます。基礎的な筆使を習得した若冲は師匠春朴から「春教」という画名をもらっています。だたし、この画名での作品は残っていないらしい。それは、師匠である春卜の弟子になるつもりはなかったようで、大典に「狩野派の技法は学び終えたので自分はこれ以上学ぶものはない。」と言ったと書かれています。

若冲は狩野派の教材は中国から伝わった絵の模写を使っていたため、直接実物の絵をを見たくなりました。いくつかは京都の寺院にあったため、ひとつずつ訪ねては蔵にしまい込んでいる絵を見せてもらい、自らの手でそれらを模写したとされています。その数なんと1000本にも及んだと言いますから、その情熱はすごい。

それでも若冲はそれでも気持ちを満たされることは無かったようです。確かに目の前にある漢絵は本物に違いないのですが、その絵でさえ画家が紙の上に書き写したもの。自分はそれをさらに書き写しているにすぎません。画家であるならば模写ではなく目の前の本物を描くことこそが画家の本分であるということに気がついたのかもしれません。
若冲は身近に飼われていた鶏(とり)に目をつけ、庭に数羽放し飼いしその躍動の一瞬一瞬を目に焼き付けました。それが後の作品へと繋がったのですね。